1970年代後半、AIの第1次ブームは収束し、冬の時代へと進むかと思われました。しかし、1980年代の到来と共に、コンピュータの普及が爆発的に進む中、AIへの関心も再び熱を帯びてきました。
第2次AIブームの始まりです。
一度は研究が停滞したかに見えたAIが、なぜ再び脚光を浴びるようになったのか。第2次AIブームはどのような環境下で芽生え、どのような進化を遂げ、成果を残したのでしょうか?
この記事で、第2次AIブームを振り返ってみましょう。
下記はジェネレーティブAIで生成したイメージです。必ずしも正確な画像ではありません。
第2次AIブームを振り返る前に、1980年代当時の時代背景を紹介します。どのような社会的背景で第2次AIブームは始まり、共生したのか。
この章で、主要なトピックを見てみましょう。
1981年に第40代アメリカ大統領として就任したロナルド・レーガンは、その保守的な経済政策や強硬な対ソ政策で知られています。彼のリーダーシップ下での「レーガノミクス」と称される経済政策は、アメリカ経済を活性化させる一方で、社会的な格差の拡大も招いたとされています。
また、彼の強硬な外交政策は、冷戦の終結に向けての動きを加速させました。
※当時の日本の総理大臣は、中曽根康弘
1981年、MTVが放送を開始し、音楽と映像を結合した新しいコンテンツ形式が爆発的な人気を博しました。この時代、マイケル・ジャクソンの「Thriller」やマドンナの「Like a Virgin」などのミュージックビデオは、世界中の若者を魅了し、カルチャーの象徴として浸透しました。
ビジュアル文化の台頭は、デジタル技術の進化と相まって、情報伝達の多様性とインパクトを増大させ、ポップカルチャーの新しい潮流を築いたのです。
アーケードゲームから家庭用ゲーム機まで、1980年代はビデオゲーム業界が大きく発展した時代です。NintendoのファミコンやAtariのゲーム機が世界的にヒットし、デジタル技術のエンターテインメントとしての可能性を多くの人々に示しました。
このエンターテインメント産業の成長は、コンピュータ技術の発展を促進する要因となりました。
1980年代は日本のバブル経済が急速に成長する一方で、1989年には消費税が導入されました。これは政府の財政安定策の一環として行われたものであり、日本の経済や社会に大きな影響を与えることとなりました。
消費税の導入は、国民の生活やビジネス環境にも影響をもたらし、経済政策や財政政策の方向性についての議論が活発化しました。
下記はジェネレーティブAIで生成したイメージです。必ずしも正確な画像ではありません。
この章では、第2次AIブームを支えた1980年代のコンピューター技術の進化について紹介します。この時代、コンピュータは専門家や研究者から一般の人々まで、さまざまな領域で使われるようになりました。
この進化の中核となるいくつかのトピックを振り返ります。
1980年代に入ると、AppleのMacintoshやIBMのPC、そしてそのクローンとして知られるPC互換機が登場し、一般家庭にもコンピュータが普及し始めました。これにより、コンピュータはビジネスや学習のツールとしてだけでなく、日常生活にも浸透していったのです。
また、ソフトウェアやゲーム業界も急成長を遂げ、パーソナルコンピュータは一般家庭にとって特別ではない存在となりました。
1980年代、オフィスソフトウェアの発展と普及が始まりました。特に、MicrosoftがリリースしたWord (1983年、MS-DOS用) とExcel (1985年、Apple Macintosh向け) はこの時代の代表的なソフトウェアであり、徐々にその存在感を増していきました。
これらのソフトウェアは、ビジネスの現場での文書作成やデータの集計・分析を革新し、作業の効率化に貢献したのです。それに続き、1990年には「Office」スイートとしての統合パッケージが初めて登場し、オフィス環境のデジタル化がさらに進展しました。
グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)の登場は、コンピュータの使い勝手を大きく変えました。AppleのMacintoshが先駆けとなり、後にMicrosoftもWindowsでこれに追随します。
この進化により、コンピュータはより直感的に操作できるものとなり、初心者でも簡単に使用することが可能となりました。
1970年代、インターネットの前身であるARPANETは研究目的で利用されていましたが、1980年代初頭には、USENETが登場しました。
USENETは分散型のネットワークを採用し、一般ユーザーも情報の交換や議論ができるようになったのです。この動きは、インターネットの民主化の先駆けとも言えるものでした。
1980年代中頃から1990年代初頭にかけて、日本で第5世代コンピューター計画という大規模な研究開発プロジェクトが推進されました。これは、人工知能の応用を実現することを目的としたもので、総額540億円もの国家予算が投入された国家プロジェクトです。
1980年代初頭、コンピュータ科学と人工知能の分野では第2次AIブームが起こっていました。この背景には、技術の進歩とともに、人工知能の実現可能性への期待が増大していたことが挙げられます。
日本の通産省(現経済産業省)は、国の競争力を向上させるためにこの分野の研究開発を国家プロジェクトとして、重点的に進めることを決定しました。
日本の情報通信研究機構 (ICOT) が中心となり、エキスパートシステムや自然言語処理などの先進的な技術を目指して研究開発が行われました。特に、並列推論マシンの開発と、日本独自の並行論理プログラミング言語(Prolog)の構築が主な目標とされたのです。
1992年にプロジェクトが完了した時点で、いくつかの技術的目標は達成されましたが、産業や市場への具体的な応用は難しい結果となりました。特に、並列推論マシンのモデルや専用オペレーティングシステム、日本独自のプログラミング言語は確立されましたが、これらの技術が具体的な産業アプリケーションにどのように応用できるのか、という点には明確な答えが出ていなかったのです。
第5世代コンピュータプロジェクトは、技術開発の歴史において特別な存在として位置づけられています。技術的な成功と市場への影響の乖離は、今後の技術開発の取り組みにおける教訓として受け止められています。
また、このプロジェクトを通じて蓄積された知識や技術は、後のAI研究や関連分野に影響を与え続けています。
1980年代、AIの研究が再び盛んになる中で、特定の業務やタスクに特化した「エキスパートシステム」が注目されるようになりました。これらのシステムは、特定の領域の知識を深く持ち専門家としての判断やアドバイスを行うことを目標としていました。
エキスパートシステムは、ある特定の専門領域の知識を持ち、その領域の問題解決に特化したAIシステムです。たとえば、「Mycin」というエキスパートシステムは、感染症の診断を助けるために開発され、医師の判断をサポートする役割が期待されていました。
また、法律や税務、金融サービスの最適化など、多岐にわたる分野での応用も期待されていました。
エキスパートシステムの核心部分は「知識ベース」であり、これは専門家の知識や経験をコンピュータ上に蓄積したものです。知識エンジニアリングというプロセスを通じて、専門家の頭の中の知識をシステムに取り込む作業が行われました。
しかし、これは非常に時間がかかる作業であり、知識のアップデートや新たな情報の追加も容易ではありませんでした。
エキスパートシステムの活用シーンとしては、病院での診断支援や銀行でのクレジット判断などが挙げられます。実際に、これらのタスクのうち特定の分野においては高い正確性を持つことが確認されました。
同時に、エキスパートシステムにはいくつかの限界があることも明らかになりました。
ひとつは、知識ベースの更新が困難であること。技術の進展や新しい情報が登場するたびに、システムの知識ベースを手作業で更新する必要があったのです。
また、エキスパートシステムはあくまで「プログラムされた知識」のみに基づいて判断するため、未知の問題や複雑な状況に対応するのは難しく、真の専門家のような柔軟性や直感は持ち得なかったのです。
エキスパートシステムが直面していた「知識ベースの手作業による更新」という課題は、第3次AIブームの中心技術である『機械学習・ディープラーニング』の出現により、大きく軽減されました。
Mycinは、1970年代初頭にスタンフォード大学で開発された、感染症の診断をサポートするためのエキスパートシステムであり、AI研究の歴史において重要な地位を占めています。
この章では、Mycinの背景、アルゴリズム、実用性、そして限界について解説します。
AIの計算能力とデータ分析能力は、医療分野での診断精度の向上に対して大きな期待が寄せられていました。研究者たちは、特に複雑なデータの解析が求められる感染症の診断において、AIの持つポテンシャルで対処できると考えていたのです。
このような背景から、Mycinは感染症に特化した診断支援ツールとして開発され、医師の診断を補完する役割が期待されていました。
Mycinは「IF-THEN」のルールベースを中心としたアルゴリズムを採用していたエキスパートシステムです。このアルゴリズムは、患者の症状や検査結果を具体的な入力情報として受け取り、そのデータに基づいて最適な診断結果や治療方法を提案するよう設計されていました。
その背後にあるルールセットは、感染症のエキスパートである医師たちの知識に基づいて綿密に設定されていました。結果として、Mycinは多様な症状や検査データを組み合わせて総合的に判断する能力を持っていました。
しかしながら、Mycinは現場の臨床診療には直接導入されることはなく、その主な成果はエキスパートシステムや人工知能の研究・開発における新しい知識や手法の確立です。
この研究ツールとしての役割においては、Mycinは多くの貴重な知見を生み出し、後の研究に影響を与えたのです。
Mycinの実用性を検証するテストにおいて、システムの診断の正確性は約65%と報告されました。これは、一部の感染症専門家の診断能力よりは低く、非専門医師の診断能力は上回っていたことを示しています。
この結果は、特定の領域における専門的知識をAIシステムに組み込むことの有効性を強く示唆していました。
しかし、この有効性が確認されたにも関わらず、Mycinが医療現場で実用化されることはありませんでした。実際の医療現場での導入には、技術的、倫理的、規制的な課題が多数存在したためです。
MycinはAIの多くの実用性を示しましたが、いくつかの限界が明確になってきました。システムの知識ベースは静的であり、新しい医学的知識や研究結果を迅速に取り込むことが困難でした。
また、「IF-THEN」のルールに基づいて診断を行っていたため、症状や検査結果が曖昧な場合や、複数の疾患が重複している場合に、必ずしも最適な判断を下すことができないという問題も指摘されたのです。
最も大きな問題は、Mycinの診断が誤っていた場合の責任の所在です。
このような限界を受けて、Mycin自体は医療現場での導入は見られませんでしたが、そのコンセプトやアプローチは後の専門家システムの発展に大きく寄与しました。
Mycinの研究から得られた知見は、後のAI研究や医療AIの発展において貴重なフィードバックとして活用されています。
第2次AIブームは、インターネットの普及とデータの大量化を背景に、飛躍的な進化が期待されて始まりました。この時代はAI技術の実用化への期待が加速し、さまざまな業界での応用が進められましたが、その限界も徐々に浮き彫りとなっていくのです。
第2次AIブームでの研究や取り組みは、非常に高度かつ高コストでした。巨大なデータセットの必要性や、高性能の計算機の導入、専門家の育成といった要因が、実際のビジネスや産業におけるAIの導入を難しくしていたのです。
そして、多くの企業や研究機関は、高額な投資に対して十分なリターンを得られないと感じるようになります。
1990年代後半には、AI技術の限界やコスト面での課題から、再び資金調達が困難になってしまいます。この時期は「第2次AIの冬」とも呼ばれ、多くの研究やプロジェクトが中断されました。
しかし、その背景には、新しい技術の台頭やAIへのアプローチの変化といった、新しい可能性も見え始めていました。
この流れを受けて、21世紀に入り、第3次AIブームへの道が開かれることとなります。
第2次AIブームは新たな期待とともに始まりました。この時代は、エキスパートシステムや初期のニューラルネットワーク技術のような前例を超える技術革新をもたらしました。しかし、すべての課題を克服することはできず、AIの完全な実用化は未だ果たせなかったのです。
とはいえ、この時代の研究者たちの情熱と成果が無駄であったわけではありません。彼らの持続的な取り組みとハードウェアの進化は、第3次AIブームの土台を築き上げました。
そして、その第3次AIブームである現在、ついにAIの実用化の夢が現実のものとなるのです。
AIの歴史は、繁栄と挫折、そして再び繁栄へと続く波のような流れを持っています。その背後には、時代を超えて続く人類の不断の探求心と技術への情熱があります。
『AI』という単語が持つドライでデジタルな印象とは裏腹に、わたしは夢や情熱、努力といった極めて人間的な要素を感じます。